曹操と呂布
曹操は反董卓連合軍より離脱後、故郷に返り各地の黄巾族の残党掃討の任を行っていた。
そして、郭嘉ら優秀な人材を確保し、黄巾族の残党を自分の軍に吸収し、確実に勢力を伸ばしていた。
ある時、故郷から父親の曹嵩をまねこうとしたが、曹嵩は旅の途中で除州の陶謙の部下の暴走により、金品を奪われ殺害される。
父を理由なく殺され、怒った曹操は軍を率いて陶謙を攻めた。
この時の曹操は父親を殺され、冷静さをかいていた。
本拠地である兗州をほぼ空にして、陶謙討伐に向かったのである。
陶謙は諸侯に救援を求めたが、この時、劉備も軍を率いて陶謙を救援に向かった。
劉備は曹操との仲裁を試みたが、当初、曹操は仲裁を受け入れる気はなかった。
圧倒的な曹操軍を前に、劉備と陶謙は風前の灯火であったが、すぐさま、曹操は意を返し、陶謙と和議を結ぶことにした。
空になった本拠地、兗州を呂布に襲われたのである。
曹操は、自身の城が呂布に攻められたという知らせを聞き、背後から攻撃されないためにも、曹操は劉備・陶謙と和睦を結び、城に引き返したのである。
この切替の速さも曹操が戦争の天才である所以である。
董卓滅亡後の呂布
董卓を倒した、呂布であったが、皇帝を確保することはできず、逆に董卓の残党である、李傕・郭汜に都を追われることとなった。
その後、各地を放浪したが、曹操が城を空けたという情報を聞き、曹操の城を攻めたのであった。
このときに、呂布の参謀を勤めていたのが陣宮である。
陣宮は曹操を危険視、呂布を利用して曹操を滅ぼそうとしていた。
こうして、呂布と曹操が争うこととなった。
劉備と呂布
除州の陶謙のもとに身を寄せた劉備であったが、まもなく陶謙が病死。
陶謙の部下たちは劉備に跡を継ぐよう懇願した。
そんな国を取るつもりで、救援にきたのではないと、当初、固辞していた劉備であったが、民衆や、陶謙の部下の強い懇願についに根負けして、陶謙の跡を次ぐことになる。
とにかく、劉備は民衆に支持された。
劉備が戦争に負ければ、民衆も劉備を頼って一緒に逃げ出すほどであった。
それは曹操すら真似をすることができなかった、劉備の魅力であった。
その後、曹操と争い敗れた呂布が劉備のもとにやってきたが、これを匿うことになる。
このころ、南方で勢力を伸ばしてきた袁術が除州に攻めてきた。
劉備はこれを迎え撃ったが、劉備が城を空けている間に、呂布が劉備を裏切り、劉備の居城を落とした。
しかし、直ちに和解。
さらに呂布が、自身の武力で強引に袁術と劉備の戦争の仲裁を行った。
劉備は居城を呂布に譲り、小沛という小城に身を寄せることになる。
曹操と皇帝
そのころ、都、長安では董卓死後も、皇帝は董卓残党の李傕・郭汜に蔑ろに扱われていた。
我慢の限界を感じた、皇帝は長安を脱出。
放浪の後、皇帝を保護することに成功したのは曹操であった。
これにより曹操は皇帝の名で天下に命令をできる大義名分を得たのである。
呂布の最期
曹操は劉備と同盟し、再び呂布を攻めた。
武勇では比類なき、呂布だったが、最期は城を水攻めにされ、味方から裏切られ、ついに捕らえられた。
呂布は曹操に「自分を味方にすれば、曹操には天下にもう敵はいないはずだ。」と降伏を申し出たが、劉備が「董卓・丁原のことをお考えください」と進言したため、処刑された。
この時、呂布は命乞いの末、処刑されたが、張遼ら部下の多くは助命された。
しかし、陣宮だけは、曹操も助けたかったが、陣宮自身が助かるのを由としなかった。
「自分の母は助けて欲しい」と曹操に願いで、曹操も涙ながらに陣宮を処刑した。
孫策と袁術
さて、話は孫堅の息子、孫策にうつる。
孫策の父、孫堅は戦いの中で散り、その子、孫策は袁術のもとに身を寄せていた。
孫策は袁術に飼い殺しにされていたが、袁術は孫策が皇帝の証である玉璽を隠しているのではないかと考え、殺すこともできなかった。
孫策は父から玉璽を譲られていたが、これと引き換えに、袁術から3000の兵を借りることに成功する。
袁術は董卓が皇帝を廃した時も、未遂では終わったが、自分は自分で別の皇帝を建てて、自分が後見人になろうとするなど、そもそも簒奪の野心があったため、これを快諾する。
孫策のもとには、父の代からの武将の他、自身の義兄弟の周瑜など優秀な人材があつまった。
孫策自身も「江東の小覇王」と呼ばれるほどの武力で次々と周辺勢力を吸収、袁術から完全に独立する。
覇王とはかつて漢の始祖劉邦と天下を競った中国史上最強の将軍項羽のことであり、孫策は項羽に劣らない武勇だと世間の人から言われたのである。
孫策から玉璽を譲り受けた袁術はついに野心を実現させ、周囲の反対を押し切り、勝手に皇帝を名乗った。
これにより、袁術は周辺、諸侯から完全に孤立することとなる。
曹操と劉備
劉備は曹操から皇帝に紹介され、正式に皇族の一員と認められた。
劉備は皇帝から「我が叔父」と頼りにされ、曹操自身も劉備を気に入った。
しかし、劉備は曹操が自身を警戒しないようにへりくだった。
ある時、曹操は劉備を食事に招いた。
そこで、曹操は劉備に質問した。
「今、世間で英雄と呼ばれているものは、多数いるが、劉備殿からみて、だれが真の英雄といえるかね?」
劉備は袁紹・袁術・孫堅・皇族の劉表、劉璋などを出したが、曹操は「袁紹などはただの金持ちのぼんぼん。孫策は若さで突っ走っているだけの愚か者」と取り合わない。
そこで、劉備は「では曹操殿から見て誰が?」と問う。
曹操は静かに答える。
「一人は、余だ。そして、もう一人は君だ。」と。
それは曹操の本心であった。
劉備はそこまで自分のことを評価しているのかと、戦慄した。
しかし、劉備は今は曹操と争うときではないと考え、時期を図っていた。
曹操討伐計画
皇帝は曹操が力をつけすぎたため、排斥したいという気持ちがあった。
そして、皇帝より秘密の命を受けた者たちによる曹操討伐計画が練られ、劉備は巻き込まれてしまう。
しかし、袁術が皇帝を僭称したこともあり、袁術討伐を名目に計画実行前に、都を脱出、袁術討伐に向かう。
劉備は袁術を討伐したが、都では曹操討伐計画が露見し、劉備は都に帰れなくなり、関係者は誅殺された。
気を許していた劉備に裏切られていた事を知った曹操は、劉備を攻めるべく、軍を派遣した。
先方の軍は劉備の敵ではなかったものの、曹操の本隊が攻めて来たため、劉備は落ち延び、袁紹を頼る。
劉備は過去に袁紹の息子を、朝廷に推薦するなど、袁紹に貸しもあり、袁紹も劉備を高く評価していたのでこれを受け入れた。
しかし、この時、関羽と劉備の妻子は曹操に捕らえられ、張飛とははぐれた。
関羽は降伏の意志はなかったが、曹操軍にいた親友張遼の説得もあり、「・劉備の妻子の安全・漢に降伏するのであり、曹操に降伏するのではないこと・劉備の行き先が判明次第旅立つこと」を条件に降伏する。
曹操と袁紹
董卓滅亡後は、袁紹は中国北東部に地盤をかため、勢力を伸ばした。
元々、名門で出であり、その勢力は曹操の10倍であったとも言われる。
袁紹は名門の出であり、若い頃は威厳のある風貌をしていたが、謙虚であり、曹操ら、大勢の人に慕われる人望があった。
曹操と袁紹は子供の頃からの、悪友であったとも言われる。
しかし、袁紹も年をとってからは優柔不断さが目立つようになり、家臣の進言を聞き入れず、勢力では曹操を上回りながら、討伐の機会を何度も逃した。
その袁紹が劉備が自身を頼ってきたことをきっかけについに討伐を決意したのである。
それでも、袁紹は意見の合わない参謀を投獄してしまうなど、頑固さがひどくなり迷走、自軍の戦力を低下させる。
顔良・文醜という猛将を軸に曹操を攻めるも、これを曹操軍に身を寄せていた関羽に討ち取られる。
それでも勢力でまさる袁紹は曹操軍を追い詰める。
一度は曹操も退却を考えるほど追い詰められるが、戦線は膠着。
袁紹軍の参謀の一人に許攸という男がいた。
許攸はかつての曹操の悪友であったが、膠着した戦線を打開するため、一軍を率いて、都を攻めることを袁紹に進言。
後日、曹操は「もし、これを袁紹が聞き入れていたら、自分は負けていただろう」と評した。
しかし、数でまさる袁紹は奇策を弄することを聞きいれず、また、袁紹軍内部の争いで許攸の家族を投獄するなどしたため、許攸は袁紹に愛想をつかせる。
許攸は曹操に寝返り、袁紹の兵糧の貯蔵庫の場所を暴露、これを攻めることを進言。
袁紹軍には兵糧貯蔵庫の防備の重要性を説く参謀もいたが、袁紹は無視しその参謀を投獄。
曹操はついに兵糧貯蔵庫の焼き討ちに成功。
これをきっかけに袁紹軍は敗戦を繰り返し、袁紹も病死する。
さらに後継者を決めておかなかったために、息子たちも内輪もめを行い、ついに滅亡する。
曹操は、袁紹が死んだという知らせを聞いて、「本初(袁紹)と自分は子供の頃からからの親友だった。その本初がこの世のどこにもいなくなったと思うと悲しい。」と泣いた。
また、自身を補佐してくれた軍師郭嘉奉孝も長い行軍が元で病死する。
「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」「天下を平定したら、郭嘉に跡を任せて、自分は隠居するつもりでいた。」と嘆き、郭嘉を惜しんだ。
その後も曹操は郭嘉を思い出すこととなる。
袁紹滅亡後の劉備・曹操・関羽
袁紹との戦いの中でお互いの場所をしった関羽と劉備は合流。
さらに、分かれていた張飛や旅先で趙雲も加わる。
曹操は劉備の生存を知った関羽は必ず、劉備の元へともどると考え、戻らないように厚い恩賞をあたえた。
関羽は度々、曹操に別れの挨拶に伺ったが、仮病や居留守を使って、会わなかった。
やむなく、関羽は受けた恩賞に全て封をし、曹操からもらったものは全て返戻し、お礼の手紙を添えて、劉備の元へ旅立った。
曹操の部下たちは関羽を追うように進言したが、居留守を使った自分をはじ、関羽の行為に感銘し、決して追わないように厳命した。
その後、劉備は、同じ皇族である荊州の劉表を頼った。