漢の滅亡
曹操の死後、曹操の息子、曹丕は漢の皇帝から、皇帝の位を簒奪する。
ここに漢朝は滅びた。
しかし、劉備は魏帝を認めないという意味でも、自らが帝位についた。
漢朝は劉備が引き継いだ。(蜀・蜀漢)
夷陵の戦い
劉備は、呉に対して関羽の敵討ちの兵を起こしたかった。
諸葛亮・趙雲らは「真の敵は魏を僭称する曹丕であり、魏を滅ぼせば呉は滅びる、漢の皇帝としてはまずは魏と戦うべきです」と諌めるが、劉備を止めることはできなかった。
そんなとき、張飛の部下から緊急の連絡が入る。
劉備はその内容を聞く前に「ああ、張飛が死んだか!」と嘆いた。
その内容とは張飛が部下の裏切りにあい、暗殺され、その部下たちは呉に逃亡したというものであった。
張飛は日頃から部下への風当たりがひどく、とくに関羽が死んでからは部下に当たりちらすことが多かったので、劉備も張飛を諌めていた矢先のことであった。
劉備は報復として、呉に戦争を仕掛けた。(夷陵の戦い)
諸葛亮には蜀を守らせ、自らが指揮をとった。
当初、劉備率いる蜀軍は優勢で、呉を追い詰めたが、油断をし、陣形のスキをついた陸遜の火計にあい大敗する。
諸葛亮は劉備の使者から劉備が敷いたという陣形を聞かされて、「ああ、漢朝はほろんだ!誰だ、こんな陣形を進言したのは、死罪にせよ」と叫んだという。
すぐさま救援を向かわせたが、劉備は大敗した後であった。
劉備は大敗をはじ、本拠地である成都には帰らず、白帝城にとどまり、自らの死期をさとり、そこを最期の地とした。
諸葛亮は「法正が生きていれば、戦争を止められたであろうし、もし止められなかったとしても、このような敗戦にはならなかっただろう」と嘆いた。
また、有能な家臣たちがこの戦いで多く死んだ。
※この時点では名だたる武将は他界しており、孔明は成都に残らざるをえなかった。
馬超は病気。
魏延は漢中の都督。
黄忠は史実ではすでに他界。
趙雲は江州(益州)防備、また史実では関羽・張飛・馬超のような都督としての活躍はしていない。
劉備の死
劉備は諸葛亮に遺言した。
「君の歳は曹丕に10倍する。もし、息子の劉禅が皇帝の器量あれば、しっかり補佐してやってくれ、しかしその器量がなければ、君が皇帝の座についてくれ。」
「馬謖は実力以上のことを口にして、頭は切れるが、実力が伴わないので、重要な職につけてはいけない。」と
諸葛亮は涙を流して、「命の限りお仕えします。」と答え、実際に、最期のときまで、劉備のために仕えた。
我が子に対しては、「どんなに小さいことでも悪いことはしてはいけない。どんなに小さいことでもよいことは行いなさい。お前たちの父は愚か者だから見習ってはいけない。古い書物をしっかり読みなさい。諸葛亮を父と崇めて使えなさい。少しでも怠ったら親不孝ものだぞ」と言い残して、世を旅立った。
劉備没後
劉備没後、諸葛亮は孫権と再び同盟を結んだ。
また、南蛮と呼ばれる、益州南部で南蛮の王、孟獲による反乱が起こったが、これを直ちに収めた。
孟獲は諸葛亮に当初全く降伏する気はなかったが、7回捕らえられ、7回開放されることで、ついに心から降伏し、以後は反乱は全くなくなった。
北伐
南の反乱を平定し、呉とも同盟を回復した諸葛亮は魏討伐に動く。
この討伐戦で後に諸葛亮の意志を次ぐことになる姜維を配下に引き入れるなど、各地で戦果をあげ、魏の首都まで後一歩と迫る。
諸葛亮は、要所の要、街亭の守りを馬謖に任命する。
馬謖は劉備からは重用しないようにと言われていたが、諸葛亮自身は馬謖の才を評価していた。
諸葛亮は馬謖に山の麓を守るよう、命令したが、馬謖は命令を無視して、山の頂上に陣を張った。
街亭に到着した魏の将軍、司馬懿は蜀軍への水源をたち、蜀軍の士気を落とし、散々、馬謖を打ち破った。
これをきっかけに蜀軍は全軍撤退を余儀なくされる。
劉備の遺言は見事に的中してしまったのである。
この後も諸葛亮は、繰り返し魏に出兵し、魏を苦しめるが、蜀内部の讒言や、兵力にまさる魏軍の司馬懿の徹底した防衛作戦を突き崩すことができず、時間だけが過ぎていくのであった。
呉は劉備没後、孫権が自ら帝位を名乗ったが、蜀のように、中国全土を統一後、漢朝を復活させる気はなかったため、いつくかの出兵をしたものの積極的に出兵することはなかった。
孔明の最期
そして、5度目の北伐の時、孔明も陣中で病に倒れた。
孔明が死亡した後、蜀軍は全軍撤退した。
孔明は死ぬ間際、司馬懿は蜀軍を追撃したが、司馬懿は諸葛亮の策を恐れて、追撃をとりやめ退却した
そこで人々は「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」といった。
それを聞いた司馬懿は笑って、「生きている人間となら戦って負ける気はしないが、死んだ人間はどうしうようない」と答えた。
蜀軍撤退後、司馬懿はその陣の跡を見、「まさに天才」と諸葛亮をたたえた。